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  市立竹原書院図書館
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  広島県竹原市中央
  4丁目7番11号  
  TEL 0846-22-0778  
  FAX 0846-22-1072

 

 

課題本

『永い言い訳

西川 美和/著 文芸春秋

読書会を終えて

吉川 五百枝

 この小説を読むと、小説家ってなんぎな仕事だなと思う。生きていくのには、言わなくてもいいことや言えないことがいっぱいあるだろうに、それを言葉にせずにはおれないのが小説家なんだろうな、なんぎなことだわ、と思うのだ。
 作家の小川洋子さんの発言を借りれば「取り繕えない人、小さい声でしか言えない人のことを“やっかいな言葉”を使って書くのが小説だ」と言われるが、この作品の主人公である衣笠幸夫は、そのやっかいな言葉で生きていこうとする小説家なのだ。
 小説家のことを小説にする。難儀な上に難儀なことを重ねているようなこの作品だが、
〈だけどね、ぼくだって考えましたよ〉ほーら、来た!という感じが早々とやって来る。
 小説家らしい言い訳が、スキーバスの事故で亡くなった妻、夏子の遺体を連れ帰るときの場面から始まる。小説家らしい言い訳だと思うのは、状況から結論までの間に、たくさんの言葉を差し挟むからだ。しかし、たくさんの言葉を使っても、客観的な多方面からの見解を縷々記すのではなく、常に自分を中心において考えている人物を描こうとしているのだろう。主人公の仕事が津村啓というペンネームを持つ作家だというのだが、読者は、津村啓の作品を読むことは出来ず、津村啓が言葉としてどのような表現をするのかは知らない。その人の作品ではなく、作家個人の内部事情を語るのであれば、小説を書いている衣笠幸夫を操っている作者の西川美和が小説家なのだ。衣笠幸夫が小説家であることは特に重要なわけではなく、言葉数をたくさん持ち、内心の動きを細かく説明できるという利点を、小説家の西川美和が利用しているという意味しかない。
 衣笠幸夫の姿を通して、小さい声でしか言えないことを、まるで繕い糸をほぐすように解いていって露わにしていく。
 R社文芸部の編集者から津村啓に送られた手紙が登場する。その中に〈ものを書く者の葛藤だけが、人間の、解決不能の孤独や絶望に寄り添えるのだ。〉という一文があって、私も そう言われればその通りだとは思うのだが、この手紙を津村啓が三度地面に叩きつけることになっているのも理解できる。西川美和が、叩きつけたいのだ。
 もし人生が、「長い言い訳」ばかりですむのなら、きっと手紙を叩きつけるほどのことにはならないだろうが、この世界におきることは、死ぬまで延々と続く「永い言い訳」になるのではなかろうか。ものを書く者のみならず、生きる上での〈葛藤〉は、〈寄り添って書けるような〉しろものではないだろう。西川美和の知る人生は、言葉をいくら費やしても書ききれない葛藤ばかりだとよく知っていればこそ津村啓にさせた行為だ。
 西川美和は、「相撲で言えば、8勝7敗でよしとする」という価値観を持っているそうだ。ここまで生きて来たのだから、1勝分は負け数より勝っていると思うが、いつでも勝敗数がひっくり返りそうなのが我が人生だとみている点で、津村啓も西川美和も、そして私も同僚だ、7敗を痛みとして解っていればこそ、編集者の手紙には、「ほんと、ほんと」と同意しつつ、やはり叩きつけたくなる。(私は、叩きつけるほど大胆にはなれないが)
 小説家の津村啓に対比するような登場者が、トラック運転手の大宮陽一である。
 津村は、〈自分の生業や現状を赤の他人に詮索されたくないという売れない頃のいじけた思想〉を定着させ、〈ぼくという、醜い自意識のかたまり〉を連れ歩くことから妻に手を引かせるような人物だ。〈愚かで幼稚で無分別で、何の存在価値もないようなグズ〉というのが自意識だから、妻は、わかっていても内心辟易する部分があったかもしれない。 
 対する大宮は、〈健全な堅気の世界の人〉で、明るくいじけたところがない。自意識をほじくり返すような描写はなく、我が子への愛おしさも開けっぴろげだ。
 常に自分から目を放すことの出来ない津村と、気持ちのままに自分から目を離すことの出来る大宮の違いが2色刷りの絵のように見える。そして、読者は、自分がどちらに親近感を持つのかと考えるだろうなと作者の意図を想像した。しかし、現実の自分の中身は、〈タイヤのパンクした乗り合いバスを、みんなして押しているようなものだ〉というのが当たっている。津村も大宮も私の中に居て、〈壊れたバスを自分たちで前に進ませる力の合わせ方〉を、なんとか解っているつもりで生きて来た。
〈もう愛していない。ひとかけらも。〉
 妻の遺品となった携帯電話に残っていた一文。
 激流もなく、淀みもなく流れてきたようなこの作品の中で、突然流れの中に現れた尖った大きな岩にぶつかった感じだ。
 このメールの下書きを読んで幸夫は〈のけぞった〉らしいが 、読む方ものけぞった。〈何だそれ〉と言う幸夫と同様に、何だそれ、と思う。だから、この世には言わなくてもいいことがいっぱいあると私は思うのだ。
 生前の妻の夏子のことを振り返ってみても、〈一方的に迷惑を被っているような顔をするが、そっちがそんなだからこっちだって〉と幸夫も耐えていたのだと独白する。これは、作者の観察から出てきた言葉だろう。〈そっちがそんなだからこっちだってこうなる〉ということは一般的には確かに多い。だが、〈こっちがこんなだからそっちだってそうなる〉と言ってもいいはずなのにそうは書かなかった。幸夫には、この逆転の発想は生まれそうにない。
 作者が選んだ「言い訳」という言葉は、自分の立場で自分から見える範囲でしかものを見ないままで使われる言葉だと思う。しかもあらゆる種類の知る限りの言葉を駆使して。
 作家としての津村啓を、西川美和は言葉で事細かく非情に刻みながら、陰りのない大宮陽一の妻への恋慕を横で聞く津村啓の目の色をとらえて描写している。〈誰ともわかちあえぬ、鉛のように、光のない目の色〉と。
「言い訳」は、誰とも分かち合えぬと知りながら、それでも解ってもらおうとする努力だとも言える。その努力が虚しくとも、〈他者の無いところに人生なんて存在しない。〉と幸夫は思う。他者としての妻を、想うことのできる〈あの人〉として自分の中に住まわせる事ができるようになってはじめて幸夫は小説家として次に進もうとする。
 作家は、どうやって小説を書き終わるのか。読み終わるといつも思う。生きている限り「永い言い訳」が終わるとは思えないからだ。やはり、小説家って、なんぎな仕事だな。 

(講師)


三行感想

〜 会を閉じて忘れぬうちに 〜


 突然パートナーがこの世からいなくなる!何も語らないで消える!こういう事態は世間では少なくないと思う。残されたものはなくなった者へどんなかかわりを持ち乍ら生きるのだろう。生きることは大変なこと、そのことには他者を想うことの存在が大切になってくる。これは残された者の永いかかわりを求め続けることではないのだろうか。(YA)


 小説を読むと言う感覚ではなく、ドラマか映画を見ると言う気がします。作家は映画監督ですので場面々が生き生きとしています。結論としていつも何か言い訳をしている自分、言い訳は必要なのか考えさせられます。(K)


 人間の人生の中で相手の死を通して、解決不能の孤独や、絶望に寄り添えるか?誰にも避けて通れない。人間とは永い言い訳をしながら、期待したり、ガッカリしたりしながら。自分の人生を分かり合えないまま終わるまで続けるね。(M)


 「長い」と「永い」の違いについて考えることからはじまった読書でした。「永い言い訳」ですから、突然に家族を失った作家である幸夫が(自分中心ではあるが)孤独感を感じながら妻の夏子に対する言い訳をし自分自身を癒していっている。知り合った自分と同様の家族に対する行為も自分を癒すことにしかなっていないと思う。(E子)


 主人公津村は愛人をつくりながら亡くなった妻の生きていた頃の人間関係をたぐっていく。妻を愛していなかったことを言い訳している。身近な人を愛することは難しいことだと感じた。(TK)


 広島では一段とネームバリューのある衣笠祥雄と同名の主人公。事故で亡くなった妻の携帯に残った<もう愛していない。ひとかけらも>の発信されなかったメール。浮ついた小説家がこの後どうやって、子供の王様「アンコントローラフルなぼく」を脱皮して成長するのか、愛を学ぶのか、自己満足でない本当の愛情を他に与えられるのか。(N2)


 我中心で物を見ると、すべてが言い訳になるが、人は言い訳をしながら生きていくものなのかもしれない。どんなに愛しても一人一人は孤独なもので、誰も寄り添えない、分かり合えない部分がある。しかし、文中の「他者のないところに人生は存在しない。人生は他者だ」という言葉が心に響いた。(Y)


 不倫相手を家につれこむような幸夫。妻の事故死により、いろいろ体験をし、妻への愛をとりもどしてゆく、永い言い訳。おわりの妻への文章にぐっときた。やっと泣けてよかった。(KT)


 

『永い言い訳』を読んで

 主人公、衣笠幸夫=津村啓は確かに作家だと思った。読んでいるとふと太宰治を思い浮かべてしまう。奥さんに支えられ、感謝しつつもそのことが重荷で、その呪縛から逃げるように不倫をしている。自分のさもしい心に気付きつつ、目を逸らせれば楽なのに、逸らすことができず、葛藤している。そんな自分がおぞましくて、吐き出すように文章を綴っている。書きたいんじゃなくて、書かずには生きていけない種類の人間、それが津村啓という作家だと思った。
とてもとても繊細な男なのだ。
 そんな彼の妻夏子が友人との旅行中、バス事故で突然亡くなる。成り行きで夏子の友人、大宮ゆきの子供たち?小学6年生の真平と四歳の灯?との留守番を引き受けるのだが、それは半ば死んだような幸夫の居場所となり、頼りにされることの喜びを感じて徐々に生き返ってくるような微笑ましい描写が続く。
 しかし幸夫を取り巻く人々の視点から眺めると、見方は変わる。自分勝手な幸夫の姿が浮かび上がってくる。
 裏を返せば、頼りにされることの喜びは、支配欲と紙一重であるし、「子供を愛することって、これまで自分がやってきたどんな疾しいことだって夢みたいに忘れさせてくれる」ことだとマネージャーらしき人物は言う。つまりは逃げているだけなのだ。「もう愛していない。ひとかけらも」という謎のメッセージを自分の携帯に残した妻の当時の思いから。妻が死んだとき、不倫していた疚しさから。
 しかし、一方で私はこうも思う。理由なんてどうでもいい。どんな自分勝手な行為であったとしても、子供たちには関係ない。それぞれが、それぞれの求めるもののために、懸命に行っている行為に、良い悪いがあるものか。側にいてほしいと思うときにそばにいて、助けてほしいと思うときに手をさしのべてくれる。それが自己愛だろうが、そんなことはどうでもいいのだ、とも。ただし、関わったからには、勝手にポイ捨てすることは許されない。愛したものには、その責任があるのだ。

 誰かから愛されることは重要だけれども、人は愛することをしないと、相手の愛にも気がつかないような気がする。大宮一家の愛を求め、得て、感じて、幸夫は初めて、妻の自分に対する愛と、自分の残酷さに気がつくのだから。
「時間には限りがあるということ、人は後悔する生き物だということを頭の芯から理解しているはずなのに、最も身近な人間に、誠意を欠いてしまうのは、どういうわけなのだろう」
 その通りだなと思った。身近な家族に対して、人は時に最も厳しく、残酷だ。
 大切に思っているはずなのに。

 著者の西川氏は、映画監督であり、この本も映画のために書いたようであるが、そのためか、心理描写が細かく書かれていると思った。物語はおもしろく、時に鋭い指摘は、私の心を突き刺さした。でもあえていうなら、書きすぎているような気がして、それが少々残念に思った。映画化し、上映されたものを私は見ていないが、きっと映像では心理的な余韻がふんだんに表現されているのだろう。読み手にも、もっと余白を与えてほしいと思った。幸夫の行動からその心を探る道筋を示すような、色気のある文章が読みたいと思った。そうすれば、直木賞候補ではなく、芥川賞候補になったのでは?あくまでも私の勝手な見解だが。

 この物語での、「永い言い訳」とは何なのだろうかと思った。死んだ人を思いだし、話しかけ、自分がひとり生き続ける為の、原動力みたいなものなのか。幸夫の場合は後悔か・・・。
 ふりかえれば、私も言い訳をしなから、日々生きているなと思った。何かが出来ないこととか、行けない理由とか、やってしまった失敗とか・・・。生きることは言い訳し続けることなのかも・・・と思うとちょっとウンザリする反面、きっとみんな同じだな?と思い、ちょっとほっとしたりもする。

 妻を失う前と、失った後の、津村啓の小説を読み比べてみたいと思った。(C)


 主人公は作家と芸能人であり、妻は夫と距離を感じている。
 芸能人なのに〜だ。作家なのに〜だ。と感じている身内。
 その妻が亡くなって、周囲が奥様が亡くなったから〜だと決めつけられて苦悩してもいる。
 妻の死後の妻の友人関係とかかわり、妻を知ることになる。
 こうあるべきなのにそうでないことは多く、その中で人間は孤独を感じてしまっている。今、発達障害の人も多く、家族ですら理解しにくい。今の世の中である。(TK)


<もう愛していない。ひとかけらも。>
 亡くなった妻夏子の携帯電話の未送信ボックスに入っていたメールの言葉。夫はのけぞった。私は思わず「夏子さん貴方はどこまで本気でこう想い、裏腹にどこまで本気で関係を修復したかったの?辛かったでしょ。」と語りかけた。
 作家・津村啓(本名:衣笠幸夫)は冷めた関係になっていた妻を突然のバス事故で失う。幸夫は妻の死に涙を流すことさえできなかった。同じ事故で愛妻(夏子の親友)を失い、あふれ出る悲しみや怒りを露わにする大宮陽一とは対照的だった。ただ幸夫が悪人かというと決してそうではなく、自分勝手で薄情で自分が大好きなだけなのだ。結果として他人との関係はうまく築かれず、好かれもしない。がもしかするとどこにもいる存在なのかもしれない。程度の差こそあれ夏子にも多くの人にも共通するところであろう。
 幸夫は小説家として食べていけなかった時代、妻夏子に支えてもらった。経済的にも精神的にも作家としても。作品としての出来栄えにも編集者の先を行くほどの助言をする。その結果、幸夫の心に芽生えたのは感謝ではなく、「妻はえらい人です」に表現されるほど自尊心を傷つけられた果ての「関係遮断」だった。
 一方夏子も夫が作家として成功するにつれ、妬いていく。彼の仕事は「虚業」であり、自分の仕事は「労働」であると自負する。言葉にして口から出さなくても侮蔑の想いは伝わる。こうして二人は夫婦としての関係性を難しくしていった。気が付いた時には修復不可能で、どうしてこんな結果になったのかと途方に暮れる。誰とも分かち合えぬ、鉛のように、光のない目の色をして。
 そうなると自分を正当化し、自分の価値観で相手を責め、相手に言い訳を続けるしかなくなる。人の心は難儀なものである。

 作家西川は人の心の動きを微に入り細に入り見事に描ききる。時には肯定的な見方をする言葉で、時には懐疑的でシリカルな見方をする言葉で。この緊張感はすごい。私はシリカルな言葉に時おり辟易しながらも、作品の世界に引き込まれる。
 また語り手が次々と入れ替わり、それぞれの人物の視点から物語を照らし出すことで、事実は揺れ動き、さらに引き込まれる。

「愛するべき日々に愛することを怠ったことの代償は小さくない。」
幸夫が突然亡くなった夏子に対して自省する言葉だが、夏子へ
のお詫びともとれる。人の心は移ろいやすい。ましてや他人との関係はもっと移ろいやすい。そして今愛していることや愛されていることが永久だと勘違いする。愛する人だから言葉にしなくても分かり合えると勘違いする。一度ボタンを掛け違えたら心のすれ違いは、哀しいかなどこまでも続く。
 移ろいやすい人の心だからこそ、共に生きている時に心を柔らかくし言葉を選び行動を尽くした努力によって関係を築き上げ続けなければいけない。
 幸夫がそう気付いたのは、心の奥底で愛し続けた夏子が突然亡くなり、大宮家の陽一・真平・灯と出会い、図らずも居場所を見つけた時だった。心を覆っていた硬いものが徐々に崩れていく。
状況が変化するなかで、幸夫はもう一度筆を執る。作品は美談に収まり空虚を散りばませた言葉ではなく、生き残った者として生きる葛藤を描いたものである。幸夫は意識の上でも再び夏子を愛し始める。

 幸夫さん、貴方は今どんな色の目をしていますか?
 夏子さん、幸夫さんとの関係は修復できそうですか?(S)



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