■広島県内の江戸時代の参道狛犬
■中世武士団安芸小早川領域における石塔の基盤的研究
■池上彰と学ぶ日本の総理3 
 池田勇人
■竹原小早川氏の発展
■大乗百年史
■おもいでをなくしたおばあちゃん
■近世文壇秘話 詩人の手紙
■洋画家南薫造交遊関係の研究
■巣箱づくりから自然保護へ
■春風館詩鈔訳

■広島県中世城館遺跡総合調査報告書

■忘れられぬことども
■医家の休日
■みがこう、あなたの日本語力
■古文書は語る

■魂に渇を入れる禅語

■関東百城

■中井正一研究会会報準備号
■シーボルト記念館 鳴滝紀要
■長福寺由来記

■東和町誌資料編四 石風呂民俗誌

■ふるさとの文化財・遺跡を訪ねて
■カラー版ブドウの根域制限栽培
■中井 正一 伝説
■たけはらの神仏を訪ねて
■ハチス
■竹原市の仏像
■仁賀區有林史
■市制10周年 市民館落成 記念
■大久野島・動員学徒の語り


■三村文庫
■芸南新聞
■竹原春秋
■篠山谷先生略伝
■切支丹灯籠の研究
■頼 山陽
■和賀神社新築明細図
■竹原市建設計画書
■藝備繁栄鑑
■生花百花式


■ラザロの島
■三翁頌徳碑
■吉井家所蔵寛永・正保期大福帳
■ヒゲと勲章
■点心帖
■ちんぴら浪人
■阿蘭陀始制エレキテル 究理原
■芳山小記
■梅表外字:風に思歌文鈔
■恵明集


■竹浦詩存
■史蹟名勝天然記念物調査報告
■豊洲石先生詩鈔
■経学者 平賀晋民先生
■石霞遺影
■片雲詩集
■唐ア 常陸介
■維新志士 池田 徳太郎
■私立忠海図書館資料
■頼 春風


■竹原志料
■山陽先生の幽光
■彦文家集
■日高凉台 全
■三理翁家集
■さくらあさ
■竹原下市村覚書
■竹原塩田誌
■御客帳
■東路日記


竹原志料 『小倉屋治左衛門等写』 

竹原志料とは、文政初年、「芸藩通史」編さんのため藩に提出した竹原町の「国郡志御用付ニ下調書出帳」のこと。内容は、町勢・町勢 附大石・神社・寺観・景勝 古蹟・人品・風俗 旧家 古器物の7冊から成っている。なお芸藩通史の編さんは、藩主浅野重晟の命により、頼杏坪が8年を掛け、全部で159巻にもなる。写した小倉屋治左衛門の名は、人品と旧家録の中に出ており、町年寄役であったという。当時の竹原を知る貴重な史料である。前記の竹原市史第3巻には、市内各町の書出帳が載っており、史料としてよく利用されている。 目録によると、「竹原志料」という名は、市立竹原書院図書館初代館長 村上英の命名による別書名と記載されている。「竹原志料」という美しい名が付いたように、表紙はくちなしで染めたと思われる黄色が今も鮮やかである。最近、古文書研究家が朝鮮の書物の黄色に似ていると調査にも来られている。 また、内容も各所に墨絵が描かれており、当時を表すものとして、竹原市史の中にも転載されている。景勝古蹟の中には、『竹原的場八景』が和歌、墨絵入りで紹介されており、当時の的場の四季折々の景色のすばらしさを彷彿とさせる。 八景とは、社頭梅花、雪牧春駒、入江水蛍、的場秋月、神峯深雪、湊社神燈、赤石漁船、塩竈夕烟。


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『山陽先生の幽光』

光本鳳伏 口述 / 山崎 南岳 筆記 大正14年

広島市の芸備日日新聞に大正12年11月から300余日にわたって連載されたものをまとめたもので、1000ページ余りの頼山陽の研究書。光本半次郎(鳳伏)は安政4年(1857)竹原で生まれ、昭和23年(1948)3月20日に92歳で亡くなり、照蓮寺に葬られている。 幼少の頃から、高橋石霞、中村三里に師事し、その後、広島師範学校で学び、竹原に戻り竹原小学校の前身「薫陶館」で長い間子弟の育英に当たった。賀茂郡議会議員を始め、さまざまな要職につき、各分野で活躍をした。薫陶を受けた著名人には、永井潜、松阪昭二、吉井章五、竹鶴友三などがおられる。 光本 鳳伏は、「竹原文学」を提唱し、先哲の研究に没頭し「山陽先生の幽光」をはじめ、「山陽先生の神髄」「山陽いろは歌」「山陽遺墨集」などの著書もある。 町並みにある、「光本邸」は、鳳伏の孫が市に寄贈されたもので、図書館には同邸にあった「光本文庫」2000冊あまりを所蔵している。


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『彦文家集』

道工彦文の和歌集で、和本1冊。宝暦9(1759)年頃、源玉成(唐崎常陸介)により編集されたもので、図書館所蔵の本書は、昭和10年に活字化されたもの。 道工彦文〔元禄7年(1694)――享保20年(1735)〕は、竹原の浜庄屋で質、酒商を営む家の生まれで京都で和歌を学び、「月にうき雲は絶間も有明の 霞吹とけ峰の春風」の歌は霊元天皇の御感に浴した名歌である。彦文は、歌道の啓蒙に励み、好んで竹原彦文と書いて自分の出身を明らかにしていたという。彦文は42歳で西遊の途中、水俣市で亡くなったが、昭和36年に彦文の墓のある西方寺に、没後220数年を経て、歌碑が建立され、昭和41年に顕彰会ができ、翌年「道工彦文家文集」が編さんされている。また彦文は、竹原文化の代表者の祀られている郷賢祠22柱の1人でもある。


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『日高凉台 全』

昭和5年発行 日高訥児 編

日高凉台に関する資料は少なく、曾孫の訥児さんが編集された1冊。 長崎でシーボルトの門人であった凉台は寛政9(1797)年生まれで、明治元(1868)年に竹原で亡くなり長生寺に墓がある。 当時、磯宮神社の前の医院には、名声を聞いて患者が多く集まり、特に眼科に秀れておられたとのこと。訥児さんも、神戸で同じ眼科医院を開業されていた。 凉台には著書、訳書も多くあり、この本には漢詩・和歌も収録されており、書もよくしたという。


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『三理翁家集』

昭和8年発行 著者 中村拙蔵

「三理翁家集」を残している中村三理(文化6年−明治16年)は、昭和48年発行の「竹原小学校創立百年誌」には、竹小創始者と書かれています。 竹原小学校の始まりは、明治6年(1873)に「薫陶館」として開館されたことが始まりで、この「薫陶館」は、中村三理(通称三平、綾)が塩浜庄屋という重責があったにも係わらず、明治2年より小学校設立の伺い書を提出し、開校に努力した結果でした。中村は、初代「薫陶館」長として子弟の教育に専念しました。「三理翁家集」の目次には、短歌、漢詩などの文章や、郷土史に関する文章もあります。中村三理は、郷土教育に貢献したと竹原小学校のそばの郷賢祠に祀られています。 なお、中村三理の書いた「竹原小学校 教則・定書」の軸物が、図書館に残されています。


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「さくらあさ」

町並みの中にある西方寺境内の普明閣の下に麻刈墳という石碑があります。文政10(1827)年に、竹原の俳諧を楽しむ上層町人の同人により芭蕉の記念碑として建立されたものです。この時、同時に竹原連中により句集「さくらあさ」が刊行されています。序文は照蓮寺の片雲 (第九世の住職、生没年不詳)が書き、朝?(中村 屋儀三郎)が編さんしています。発句は、芭蕉翁玉 章と書かれた次の句で、  秋ちかきこころのよるや四畳半 以下380句余り が記されています。号の上に、白市、新庄、三津、 南方、広島、吉和などの出身地が書かれており、当 時の安芸の国竹原の文化の高さがうかがえます。 なお、この句集「さくらあさ」は、平成13年に、 岩国玉太さんにより、註解が出版されております。


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『竹原下市村覚書』

正確には、「下市村於中覚書」「下市村役所覚書」「竹原町覚書」などの表題がつけられている。年代は天和4(1684)年から明治4(1871)年までで、現在152冊が残っている。内容は、幕府・藩の「触」(知らせや命令)や貢租(税金)・村政・治安・産業・商業・交通運輸・寺社等に関する記事である。竹原市史第4巻資料編に、重要史料が抜粋されて、年代順に収録されている。図書館では、三百数十年以前の貴重な市民の文化遺産として劣化を防ぐため、マイクロフィルムや複製本を作成し、現本は保存に努めている。図書館では、複製本を利用できる。

トピックス
<竹原町覚書>(享保14年・1729年)4月7日の頃 長崎に来朝したオランダ人が象を将軍に献上して、山陽道・東海道を通って江戸に到着している。4月8日に四日市(東広島市)を発ち、田万里で休憩し、見物などで大騒ぎになった。この象は日本に初めて来た象である。


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『竹原塩田誌』 

全6巻 小山季興(おやますえおき)編

「本書ハ安芸国賀茂郡竹原塩浜ノ記録類ヲ抜粋シタモノナリ」 とはじめに書いてあり、現在竹原書院図書館の旧竹原塩業組 合史料をもとに編纂されたものである。竹原塩業組合の責任 者であった小山季興(1847〜1923)が編纂にいつ着手し、 いつ完成したのかは不明だが、内容、清書ともにとても丁寧 で、長い年月を要したと想像できる。そのため、右人差し指 が神経痛で曲がり、見るのがつらかったという家族の方の話 である。また、ちびた筆が山をなしていたという。  大正12年2月竹原塩浜大工中によって地蔵堂境内に思恩碑が建てられている。小山の墓は、広島市江波の慈仙寺にある。  「日本塩業史体系 資料編 近世(四)」(日本専売公社発行、昭和50年)に全6巻が収録されている。


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『御客帳』

忠海町羽白家(江戸屋)から寄贈を受けた「御客帳」は文化・文政から,明治20年までのほぼ70年にわたる帳簿で、廻船問屋をしていた当時の得意先名簿です。取引のあった国別に、来航年月日・船名・船頭名・扱った品物の名が記されており、この「御客帳」から、忠海町の港町としての繁栄の姿を見ることができます。市史の編さん資料としても大変貴重なもので、全国から、この資料の閲覧のために図書館を訪れる方も絶えません。忠海町には、荒木家(浜胡屋)の「御客帳」も残されています。


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『東路日記』

(嘉永7年)複製本 忠海町灌園坊 作

忠海町西養寺の住職で、池坊流花道の名人。京都池坊家元の名代資格を授けられ,全国を回り流派を広めた。『東路日記』は嘉永7(1854)年、状況した時の日記。同じく灌園坊の記した『日記』(安政6年)も複製本が図書館に所蔵されている。
なお、西養寺にはその他、灌園坊資料が保存されている。
辞世の句 「島一つ見えてあかるし秋の雨」


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