『竹浦詩存』
村上定(隆吉)の3回忌が営まれた昭和9年に、定の長男一郎が一千首余りの中から七言絶句240首余を収録し「竹浦詩存」と名づけ、親戚などに配った和本。この漢詩集は、晩年64歳から亡くなる76歳までに作られたもので構成されている。
村上定は、芋地蔵「村上休広」の子孫で、竹原で安政4年(1857年)に生まれる。(屋号 忠海屋) 慶応義塾大学卒業後、新聞記者として熊本、兵庫などで自由民権論を唱え活躍するが、投獄の憂き目に遭う。明治25年に三井銀行に入り、その後共同生命保険会社の社長になるなど実業家であった。昭和6年には、「村上定自叙伝」を書き、慶応義塾福澤研究センター資料として出版されている。【村上定自叙伝・諸文集―松崎 欣一 平成元年】
「竹浦詩存」のなかに「寄贈書籍於竹原 書院」と題して、明治43年再興された竹原書院に対し援助を始めた気持ちを詠って いる。大正11年が第1回で、以後数千冊
にも及ぶ蔵書を故郷に送り続け、今も「村上文庫」として伝えられている。今日の 「竹原書院」の礎を築かれた1人である。
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『史蹟名勝天然記念物調査報告 第三輯』
広島県 昭和7年
この本には、大正8年4月の「史蹟名勝天然記念物保存法」に基づき、広島県で10番目、昭和5年11月に指定された「スナメリクジラ回遊海面」の調査報告が、記載されている。
明治の初め頃には、東京の品川湾でもスナメリクジラは見ることができたが、当時は少なくなっており、一方阿波島近海は、一定の季節に、確実にしかも容易に、スナメリクジラの生態を観察できる地点であったという。しかし、捕獲するものが現れ、スナメリクジラは発砲されると姿を見せなくなるため、減少し始めている動物の保護のため文部省が国の天然記念物に指定した。
スナメリクジラは、当時、アフリカケープタウンからインド洋、そしてフィリッピンあたりの航路では普通に見ることができ、春先に内海に回遊して来た。ゼゴンドウ漁といって、スナメリクジラのいるところにはイカナゴがおり、鯛等が回遊面に集まり、短期間の漁で高収入になったという。そのため、漁をする人のスナメリクジラに対する愛護と感謝の念は筆舌に尽くしがたいものだったと記載されている。
6年前に、忠海高校の「スナメリ調査隊」が生態調査レポートをまとめているが、現在広島県ではスナメリクジラの発見はとても珍しいとのこと。
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『豊洲石先生詩鈔』
1冊 石井豊洲 著 「出版年不詳」
「石井豊洲年譜」を平成6年出版した、郷土史家小原千秋は、頼家の人々について調べている資料の中に「儀右衛門」「儀卿」という人物がたびたび登場して来るので調べ始めたのが、豊洲を研究したきっかけと言う。(菅脩二郎共著)
石井豊洲(字儀卿、通称は儀右衛門」)は、下市の生まれで、西野町伊勢両宮社神官渡橋家を祖先とする。幼少より、頼春風、春水に学び頼山陽とは多年にわたる交流があった。後に三原藩の学問所明善堂の儒員として20年余も藩の文政を司ったと「三原志稿」にある。地元竹原でも「竹原書院」や、家塾の教師として長年多くの子弟を教育した。
「豊洲石先生詩鈔」は、文政5年頃から天保元年頃までの詩文で、構成は年代順になっていない。図書館所蔵のものは、初代図書館長村上英が子弟の子孫から写本している。豊洲の著作は、他に「丁卯遊志」「中隠堂詩鈔」「豊洲遺稿」などがある。平成18年3月、竹原中央公民館まつりにおいて開催された「石井豊洲展」の折には、広島、大阪など20名余りの石井家の方が竹原を訪れ豊洲亭(旧宅)などで豊洲を偲ばれた。
豊洲は、文久2年亡くなり照蓮寺に葬られ墓碑銘
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『経学者 平賀晋民先生』
澤井常四郎著 昭和五年永井潜 述
系図によると、東広島市白市城主の末裔である、平賀晋民(ひらが、しんみん,号 中南 ,1722−1792年)は、忠海町の生まれで、新町に旧宅が残っている。14歳の時、本郷の富農土生氏の養子となる。養父が亡くなった時は、日々墓参し3年の喪に服し「一郷のひとみなゝ涙を落とせし・・」と豊田郡史は、人柄を伝えている。
その後、同族に土生氏を継がせ、自分は、平賀姓を名乗った。40歳にして本格的に学問に志し、古代中国の経書という書物の内、易を研究した。古希に達し、今日残っている著述の大半を記した。大阪で亡くなったため、余り郷土に知られていない晋民を、著者澤井が苦労の末まとめた1冊。晋民の著書5冊が収められており、県内の図書館では、三原市立図書館に「日進堂集」など写本が4冊あるのみで、唯一の晋民の伝記である。竹原の頼春水も学びに訪れており、永井潜は、「中南なければ即ち春水なく、春水なければ即ち山陽もない」と序で書いている。
大阪の墓は、「好古先生」とのみ書いてあり、遺言で姓名や生没年月日などは刻まれていない。
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『石霞遺影』
永井潜 述 大きさ23cm内容10P、写真3枚(遺影、書、山水画、石霞楼)
町並みの松坂邸の北隣、現在の岩本邸が高橋石霞の住居であった。晩年には、書を読んだと言う中国風の石霞高楼を作り、現在も竹原でも例のない屋根を見ることができる。
石霞は、文化3(1806)年の生まれで、17歳の時高橋家の養子となる。当時、高橋家は、古着商及び酒造業を営んでいたが、石霞は学問が大好きで猫子炬燵の中にろうそくを灯してその明かりで深夜まで、書を読んだと言う。後には、地方の一個人の買えないような数千冊の叢書も惜しまず購入するほどの学問好きであった。今治の藩儒であった渡辺 渉は海を渡ってその蔵書の勉強に通った。明治16(1883)年、76歳で亡くなり、照蓮寺に葬られ、石霞の墓碑銘も渡辺が書いている。
「石霞遺影」の作者永井潜は、石霞の孫で東京大学名誉教授の医学博士。スマイルスの「自助論」をはじめ当図書館にも著作がある。
「遺影」の中で潜は、祖父のエピソードとして、 竹原始まって以来の大火があった時、高橋家も3千石余りの酒とともに消失したが、石霞は、家族の無事を確かめたあとは、書籍を失ったことを嘆いたと書いている。
文化の町「竹原」に生きた、家業を繁栄させ、学問に打ち込み、多彩の趣味人であった高橋石霞について語られ、まさに面影を彷彿とさせる。
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『片雲詩集』
片雲著 大正8年写本
竹原町並みの西に位置する照蓮寺10世(竹原志料による)の僧片雲(1768年から1847年)が残した詩集。書院図書館初代館長で、歴史に造詣の深かった村上英による写本5冊を当館が所蔵している。村上英は、片雲と交友のあった高橋巾山の甥高橋吉之助の所蔵本を謄写したと書き残している。
1冊目"丁丑録"2冊目"庚辰録"3冊目"甲申録"4冊目"辛卯録"5冊目"乙未録"で、文化14年 (1817年)から天保8年(1837年)までの約970首
である。題材から、僧片雲の交友関係も浮き彫りになり、題に春風の名のあるもの65首、その他頼杏坪や石井豊洲、池田徳太郎が学んだ 清田元吉の名も見え、当時の竹原の文化の高さを知る
ことができる。
片雲(恵範)は、府中市の明浄寺の出身で、照蓮寺9 世獅弦(恵明)、住僧乕渓(超倫)とともに詩文・書に 優れた3人に挙げられている。
照蓮寺は、平成15年に浄土真宗として再興400年 ということで「安芸竹原照蓮寺」の1冊に歴史をまと められている。
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『唐ア 常陸介』
村上 英 著 昭和8年
著者 村上 英は、「竹原書院の事ども」という文章の中で、明治43年に社団法人竹原書院を創設したいきさつを、竹原文教の祖塩谷道碩の故宅が手に入ったことと同時に、百年の昔に先輩が踏みしめた土の香に懐古の思いを寄せて発憤努力の資にしたい為であったと書いている。町立図書館になった昭和4年、英は初代図書館長となり、昭和21年まで館長を務め、その間昭和17年から21年まで竹原町長としても手腕を発揮した。
「唐ア 常陸介」をはじめ「郷賢祠」など地方史の研究を長年取り組み、写本も多く残っており、現在でも遠くから研究に来られる。平成10年には、英の長男弌(はじめ)の教え子であった加藤俊彦編による「村上英著作集」も出版された。昭和33年86歳で亡くなり、西方寺に葬られている。
「唐ア 常陸介」(1737年〜1796年)は、礒宮八幡宮の宮司で山崎闇斎の門の学者の中の4人に数えられている。礒宮千引岩の「忠孝」の文字は、宋の文天祥の2字を常陸介が彫刻したという。
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『維新志士 池田 徳太郎』
澤井常四郎 発行所 広島県三原図書館
昨年の、NHK大河ドラマ「新選組」にも登場した、忠海町生まれ池田徳太郎について著者の澤井が調査研究するきっかけは、数千通の手紙であったという。「富田」という知り合いの家にあったもので、その他「小鷹狩、村上」や池田家子孫の方からも多数の資料が完全に保存されており、その提供を受けたとまえがきにある。これらの資料は、三原市立図書館長であった澤井が、原稿用紙に写したものが三原の図書館に寄贈されており、当館にも8冊の複製がある。澤井は、これらの資料をもとに徳太郎の研究に数年を費やし、昭和9年に発行されている。
徳太郎は、明治維新後、種徳(たねのり)と改名 し、号を快堂といい、常陸知県事・新治県権令・ 島根県権令などの要職を歴任し、青森県権令(知
事)であった明治7年に病のため44歳で亡くな り、東京谷中霊園に墓がある。忠海町には、昭和 11年八幡神社境内に「池田快堂彰徳碑」が建立
され、また孟子の言葉を徳太郎が書いた「大丈夫」 という額が掲げられている。忠海町には、池田徳 太郎生家が今も残っている。「安芸備後両国偉人伝」
によると、池田徳太郎の人柄は「資性謙遜にして、 誠意人を感ぜしむ」とある。
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『私立忠海図書館資料』
昭和33年の合併で竹原市が誕生した時、合併町村の役場文書が図書館に収集され、現在まで保存されて来ました。
その中に、「私立忠海図書館資料」約1000冊があります。出版年が明暦元(1655)年から明治36(1903)年までの和本で三国志から日本外史までさまざまな本が揃っています。
この本には、寄贈者 高橋吉之助と書いたラベルが貼ってあります。
高橋吉之助は万延元(1860)年、大乗生まれで、広島師範学校卒業後、32年間教職につき、そのうち25年間が忠海町での勤 務でした。忠海では夜学会や青年会を設けたり、私
立忠海図書館を設立し、人々の啓発に努めました。
その後、明治42年には、大乗村長に推挙され村 政に尽力しました。 「私立忠海図書館資料」は、当時の町の文化の高さを ほうふつとさせ、高橋吉之助の志を今も感じさせて
くれます。
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『頼 春風』
増田利高 昭和8年
平成5年2月4日は、竹原書院図書館の濫しょうである郷塾「竹原書院」開講200年に当たる記念の日であり、記念事業として図書館は「頼春風」という研究書を発行しました。作者の小原千秋は、その中で、「頼春風」を書いたいきさつについて、地元竹原書院図書館を訪れて、その頼春風関係の資料が僅かであることを悲しみ、そして増田利高著「頼春風」の千ページに及ぶ大作に驚いたとあります。
増田利高は、当時日本大学の学生で、卒業論文としてこの「頼春風」の研究を決意した。その理由として、頼山陽の思想の源となる祖父 享翁、父 春水、叔父 杏坪などの研究書はあっても、山陽の理解者で庇護者である、春風に手がつけられていなかったからと書いている。その時、竹原頼家からも、門外不出の貴重な文献を提供され励ましを受けたと感謝の意を表している。
本書は、豊富な資料をもとに、当時の日本の思想界に始まって、竹原の儒学、そして春風の幼児から書き出し、山陽との関係や与えた影響、また医学者としてなど、丁寧に春風像を描き出している。結論で「病弱な山陽を意気に燃ゆる青年に仕立て(略)、名著日本外史を完成せしめし等山陽の大成は
春風の力に寄ることが甚だ大である。」としている。
頼春風は、郷賢祠に祀られ、照蓮寺頼家の墓地に は菅茶山による碑が建っている。 竹原生まれの増田利高は、広島師範から日本大学
に進み、神奈川県で小学校の先生をした後、再び東 京高等師範学校に学び昭和15年から18年にかけ て、旧制忠海中学で国語の教師をしている。
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