『三村文庫』
市立竹原書院図書館歴代館長のうち、2代と7代、2度館長を勤められたのが、当時的場にあった広島大学理論物理学研究所初代所長であった三村剛昴(みむらよしたか)であった。昭和22年6月から昭和25年3月までと昭和35年4月から亡くなる1ヶ月前の昭和40年9月までの通算8年3ヶ月、図書館長であった。昭和40年10月26日的場の自宅で亡くなられたあとも千葉県出身の伊都夫人は「竹原が好きだから」と90歳過ぎで亡くなるまで的場で住み続けられた。図書館に寄贈された書籍は、「三村文庫」として登録し、道具類は、歴史民俗資料館に展示され在りし日を偲ぶことができる。蔵書には、英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・中国語など数カ国語の本が含まれていていまさらながらに驚かされる。
ロシア語は、60歳になってから勉強を始められたとのこと。町並みの中に、元三村邸はあるが、一人息子の三村先生が上級学校に進まれるたびに両親も引越しされたとのこと。今は、照蓮寺に一緒に眠っておられる。
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『芸南新聞』
昭和21年4月15日〜平成4年4月12日 芸南新聞社発行
市立竹原書院図書館規則では、図書、雑誌、新聞、記録、並びに視聴覚資料等の収集、整理、及び保存が図書館サービスのまず最初の事業として掲げられている。
図書館で1番古い新聞は「芸南時報」第1号で、大正2年4月20日に発刊され、1部3銭で1ヶ月5銭であった。社主 亀尾不倒(善松)は、発刊の辞として、地方発展の警鐘・人文の発展に貢献するためと述べる。昭和7年8月までの269号が保存されており、複製本で見ることができる。
「芸南新聞」は、芸南新聞社が昭和21年4月15日に、「芸南民衆新聞」として月2回発行を始め、昭和23年1月の57号から「夕刊げいなん」と改称し、週刊となる。「芸南新聞」という名称は、昭和26年6月10日の233号からで、以来平成4年4月12日に廃刊するまで2291号が発行され、46年間にわたって地域に情報提供を続けた。これら、地元の新聞は、他に代えることのできない貴重な文化遺産で、図書館では、本体は保存するため、利用者は複製を郷土資料室で見ることができる。その他、昭和62年9月発行の「週刊タウントーク」も平成14年5月までの679号を保存している。
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『竹原春秋』(郷土史と民俗)
竹原郷土文化研究会 昭和44年〜平成6年 23冊 (3冊に合冊)
昭和43年11月、市立竹原書院図書館(現在の竹原歴史民俗資料館)の2階で、図書館を事務局として竹原郷土史民俗研究会が発足した。研究誌「竹原春秋 第1号」に当時の木村亮平館長は ― 日進月歩の科学技術と激しく移り変わっていく社会の中で、人々が永い生活の中から生み出した庶民の文化的遺産が急速に失われつつある今日、この会の存在はきわめて有意義である ― と言っている。
当初は会員14名で、昭和47年第5号から「竹原郷土文化研究会」と名称変更し、図書館も現在の場所に移り、毎月例会を開き、会員も85名に増加している。「竹原春秋」には、竹原高校の生徒も会員となっており、幅広い層が参加していた。
竹原塩田が廃止されてから14年後の昭和49年、当時の郷土文化研究会会員延べ79人が、41人の元塩田従事者に"竹原塩田聞き取り調査"を実施している。貴重な録音テープ38本が、在りし日の竹原塩田の姿を記録している。第1号から5号までは、図書館職員の手書き製本で、以後224回の例会・講演会を実施した。
休眠状態のあと、平成16年4月、新生竹原郷土文化研究会が活動をはじめ3ヶ月に1度会報も出されている。
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『篠山谷先生略伝』
大正元年 門人 早川卓再選 1冊
竹原春風館には、いつも書生がおり、春風から医学や儒学を学んでいたが、その中でも特に有名なのが石井豊洲であった。その豊洲の教育を受けた谷篠山は、天保14年(1843)新庄に生まれた。名は、六蔵で篠山は号。
東野村で敦篤堂という塾を開いていたが、明治になり、学制が発布されると、 篠山は、明治6年当時32歳であったが、新しい教育をするために広島師範学校の前身に入学した。その後、入野小学校、中通小学校の前身、「明親館」はじめ、明治33年11月亡くなるまで、現職であった。
中通小学校創立百周年記念誌(昭和48年)によると、−訓導谷篠山、明治8年1月以来、本校教育指導に全生命をかけられた。−と書かれており、葬儀には職員・生徒が参列している。
中通にある下賀茂神社は、生前篠山が神官として、奉仕しており、明治44年門弟たちによって記念碑が建てられている。この略伝は、記念碑ができたあと作成されており、わずか6ページしかないが、明治以降の市史がないため、とても貴重な
1冊である。
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『切支丹灯籠の研究』
松田 重雄著 同信社発行 昭和44年
昭和43年当時、鳥取民俗美術館館長であった著者が、20数年にもわたって研究しまとめた本。全国の切支丹灯籠を訪ね、文献を調べられたもので広島県内に、19基あり、竹原市では、完全な形で1基【赤御影、高さ146p、像36cm】あると記されている。著者は、江戸時代の先覚者達が優れた西洋文化を取り入れたいと願った強い信念、いかなる迫害にも耐え信仰の自由を叫び続けた雄々しい気迫、何者にもくじけない鉄石の信仰心とたくましい魂魄を切支丹灯籠は無言のうちに物語っていると述べる。
三原ジャスコ前の通りに"聖トマス小崎像"がある。豊臣秀吉の出したバテレン追放令により京都で逮捕された殉教者の1人で慶長2【1597】年1月19日三原に着き、母に書いた励ましの手紙が残っている。400年以上前に、旧山陽道河原坂峠から新庄、西野、田万里と歩いた1人である。また、享保14【1729】年4月8日には、インド象が長崎から江戸まで旅する途中、田万里市から河原坂峠を通り本郷に泊まっている。
11月18日、竹原郷土文化研究会や本郷のボランティア「森のおさるさん」とで、旧山陽道「河原坂峠」の草刈などの行事があった。ほぼ昔のままで残った貴重な場所として峠をはさんで、新庄側と本郷側から昨年より整備されている。
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『頼 山陽 上・下』
見延 典子著 徳間書店
中国新聞に2004(平成16)年10月5日から2007(平成19)年4月25日までの2年半にわたり連載されたものに大幅な加筆修正を加え出版されたもの。
作者の見延 典子は、札幌市生まれで広島在住。頼山陽との出会いは、今から10年以上前、広島市中区袋町の山陽の父春水の屋敷跡に建てられている頼山陽史跡資料館での「古文書研究会」への参加。
それを契機に平成12年頼山陽の母梅の生涯を描いた「すっぽらぽんのぽん」、平成16年にエッセイ「頼山陽にピアス」と続き、今度「頼山陽」に集大成された。
「頼山陽にピアス」の中で、頼山陽を題材に書くのは山陽という類まれなる個性に春水と梅の親としての苦悩への同情であると述べ、頼山陽を「江戸時代に生きた現代人」と書いている。新聞連載中から「頼山陽」の小説をNHKの大河ドラマにという動きもあった。
ここの10月の憧憬の路にも竹原に来られ、1役を担ってくださった。
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『和賀神社新築明細図』
明治22年 寄贈
和賀神社は、通称「小早川神社」。竹原から6キロ余り、新庄の国道432号沿いにうっそうとした木々に囲まれて建つ。春は桜、秋は銀杏が美しい。竹原小早川家14代の居城木村城の麓にあり、小早川隆景を祀る。
以前は、山の上にあった神社には、毛利家は参拝を欠かさず、また明治18年より完成する22年までの5年間、村民が竹を切り岩を砕き埋め立てなどの労力を提供した。(賀茂郡志)男爵小早川家も尽力している。明治23年には賀茂郡で唯一県社に昇格し陰暦9月13日には盛大な祭を行なっていた。
当時の荘野村村長種村有造の子孫の方より、このたび「和賀神社新築明細図」及び関連文書が入った木箱が寄贈された。竹原から離れた地で、生前とても大切に保管されたと聞く。平成15年「和賀神社建立関係資料綴」を菅脩二郎がまとめた時には、図の存在は知られておらず、実測で境内を図っている。
「和賀神社」の文字は、有栖川熾仁親王殿下が書かれており、拝殿神楽殿祝詞殿など当時の神社の姿が甦り、今の神社の姿から、時代の移り変わりを感じさせる貴重な遺産である。
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『竹原市建設計画書』
昭和35年3月 1,186ページ
この計画書は、昭和33年11月3日に合併した竹原市の最初のもの。内容は、第1編 基礎調査書、第2編 基本計画書、第3編 実施計画書。当時は、印刷用紙も荒く厚さが7cm以上もあるが、新しい市となった意欲が感じられる。一番最後の章には、市庁内の確立という項で、『この計画が市の将来に及ぼす影響の重大さと、計画の全貌を全職員に充分認識せしめ挙庁一体の体制で事業推進にあたると共に常にこの計画の推進状態並びに経済効果の測定に努め、より効果的な計画の実現を期す。』と書かれている。
竹原町の時代から、行政文書の保存機関である図書館には、さまざまな市の計画書が収集され、また、他市の計画書も閲覧できる。現行計画の目標年次は、平成20年で「瀬戸内に輝け!にぎわい文化都市たけはら」とキャッチフレーズがついている。今、新しい竹原市総合計画が策定されようとしている。
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『藝備繁栄鑑』
(げいびまるもちかがみ) 明治23年 渡辺 時次郎編さん(広島区)
明治23年1月当時の広島県下の資産家を相撲番付方式で1枚にまとめている。改正とあるので、以前にも編さんされており―― 家業盛大ヲ國中ニ吹聴シテ取引関係ノ一助トス
――とある。 東之方、西之方と分け、それぞれ大関、関脇、小結が1名ずつ、あとは前頭である。
東之方では、関脇 竹原 松坂芳太郎とあり、前頭に竹原市関係は吉井半三郎をはじめ6名の名が載っている。また、西之方では、大関に竹原 桐谷恒四郎とあり、前頭に亀田元五郎はじめ8名の竹原関係の名がある。全体では930名余りになる。
それ以外に別格として、竹原 頼俊直の名がある。現在では、現物が残っているのは少ないらしく、当時の町の様子を伺う貴重なもの。
江戸時代から番付表を作ることは、よくあったようで、大阪医師番付集成(思文閣出版、1985)によると寛政末期から明治18年まで45回も番付が出されている。郷土関係では、橋本曇斎と日高涼台が前頭で何度も選ばれている。
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『生花百花式』
武田 灌園房(三代)大正15年 1冊
この本は三代目灌園房が明治2年から27年までの間に近隣の安芸津、西条、尾道、呉、広島はもとより、山口、岡山、香川県まで出かけて生けた傑作ばかり集めた作品集。
市内では、明治9年竹原町手島氏、明治2 0年竹原町亀田氏、明治25年竹原町藤田氏、 明治26年東野長善精舎ニテ生之。とある。序文は、池坊42世専正によって書かれて
おり最初が専正の生花。
芸南古今人物誌によると、忠海町西養寺1 3代の住職から灌園房と名乗ることが許され、 池坊家元の名代資格で、江戸から九 州まで池坊華道の流派を広めることに貢献
したという。 一代・二代の灌園房もそれぞれ「生花百花式」を残しているという。
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