■広島県内の江戸時代の参道狛犬
■中世武士団安芸小早川領域における石塔の基盤的研究
■池上彰と学ぶ日本の総理3 
 池田勇人
■竹原小早川氏の発展
■大乗百年史
■おもいでをなくしたおばあちゃん
■近世文壇秘話 詩人の手紙
■洋画家南薫造交遊関係の研究
■巣箱づくりから自然保護へ
■春風館詩鈔訳

■広島県中世城館遺跡総合調査報告書

■忘れられぬことども
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■みがこう、あなたの日本語力
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■関東百城

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■シーボルト記念館 鳴滝紀要
■長福寺由来記

■東和町誌資料編四 石風呂民俗誌

■ふるさとの文化財・遺跡を訪ねて
■カラー版ブドウの根域制限栽培
■中井 正一 伝説
■たけはらの神仏を訪ねて
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■竹原市の仏像
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■市制10周年 市民館落成 記念
■大久野島・動員学徒の語り


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■芸南新聞
■竹原春秋
■篠山谷先生略伝
■切支丹灯籠の研究
■頼 山陽
■和賀神社新築明細図
■竹原市建設計画書
■藝備繁栄鑑
■生花百花式


■ラザロの島
■三翁頌徳碑
■吉井家所蔵寛永・正保期大福帳
■ヒゲと勲章
■点心帖
■ちんぴら浪人
■阿蘭陀始制エレキテル 究理原
■芳山小記
■梅表外字:風に思歌文鈔
■恵明集


■竹浦詩存
■史蹟名勝天然記念物調査報告
■豊洲石先生詩鈔
■経学者 平賀晋民先生
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■唐ア 常陸介
■維新志士 池田 徳太郎
■私立忠海図書館資料
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■彦文家集
■日高凉台 全
■三理翁家集
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■竹原下市村覚書
■竹原塩田誌
■御客帳
■東路日記


『ラザロの島』 

穂高 稔作 劇団青俳 昭和47年

戦中・戦後の大久野島を題材とした、2作品の1つで、どちらも舞台で上演された。もう1つは、福山市出身の小山祐士「日本の幽霊」で、昭和37年11月に東京の俳優座劇場で上演された。図書館では、どちらも郷土資料として許可を得て作成した複本を所蔵している。

芸南新聞の昭和47年10月8日の記事では、−毒ガス障害者を描く 芸術祭参加  "ラザロの島"を上演−と見出しにあり、同じく10月28日の中国新聞では −毒ガス島の実態をさぐる消えぬ戦争の傷跡−とあり、こちらも東京六本木の俳優座劇場で上演されている。

大崎上島町出身の作者穂高稔は、劇団青俳を仲間と立ち上げ、演出も手がけ、自身も大久野島で働いた経験から、脚本を書くまでに5年間も掛かっている。地元竹原からも資料が寄せられ、遺族からは舞台小道具として遺品まで届けられたという。中国新聞では、これらは、作者穂高の人間味あふれるエピソードと書く。最近まで水戸黄門などのテレビでも活躍していた。ちなみに、主人公の名前は竹原に住んでいた姉夫婦から、一郎、すみと命名されている。


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『三翁頌徳碑』

昭和40年7月

この碑は、JR呉線扇町踏切より竹原内港に向かって約50メートルの道路沿いに、本川を背に、正面は三井金属鉱業竹原精錬所に対する地点に立っており、竹原塩田の埋め立て、呉線の開通、三井金属(当時は、昭和鉱業)の誘致に貢献があった3人を顕彰している。

碑を見ると、題額内閣総理大臣池田勇人、日本書芸院審査員高木鳴鳳書、撰は広島大学教授頼桃三郎である。

碑文によれば、三翁とは、塩田を埋立てた東京湾埋立株式会社浅野總一郎社長、昭和鉱業株式会社森矗昶社長、当時の政界の元老望月圭介である。特に大崎島出身の望月圭介については、呉線開設の恩人であり、これら事業に当初から示唆斡旋に努め終始推進激励の労を惜しまなかったとある。この碑の除幕式は、昭和40年7月10日であるが、碑文は、昭和39年3月とある。当時竹原町議として町の発展を願い、これら誘致に努力し今日の竹原の生みの親とも言える「吉井章五」が、晩年頌徳碑建設委員長となり悲願成就したのであるが、序幕の時は既にこの世になく、唯一の心残りではなかったかと昭和鉱業・竹原電煉工場の回顧に記されている。


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『吉井家所蔵寛永・正保期大福帳』

竹原市史第5巻収録 昭和42年

竹原市史の解題によると、寛永期(1624年)以前の大福帳としては日本でも最古の部に属し内容も豊富で近世初期の農村事情を知るうえでも貴重な資料であると書かれている。市史5巻には、寛永10・12・14・22年、正保2年までが収録されているが、それ以外に承応(1648年)から安政5年(1858年)までの10冊余りが残っている。

吉井家は屋号を米屋と称し、近世初頭から上市の商人で、塩田経営・酒造・塩問屋・廻船業など多角的経営を行い、また、竹原下市一級の商人として、2代目又三郎正次から(明暦3年、1657年)代々町年寄役を明治4年までの215年間ほとんどその地位を占め、元禄年間には、殿様の本陣で、御成間・本陣庭、門が建てられた。

13代章五は、当館6代目の館長も務め「昭和鉱業・竹原電煉工場の回顧」(三井金属鉱業株式会社)によると、第一次塩田廃止の後、埋め立て・企業誘致、昭和7年7月10日の呉線開通などにも尽力した。昭和39年4月に亡くなったが、当時の有原市長は「先生常にいわく、成さんとすれば必ず壁あり。毀誉褒貶これ何ものぞ、眼中唯あるは郷土竹原のみ」と弔辞で述べ称えている。


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『ヒゲと勲章 ウイスキー革命は俺がやる』

竹鶴 政孝 ダイヤモンド社 昭和41

日本のウイスキーの父と言われる竹鶴政孝は、明治27年町並みにある"竹鶴酒造"の分家浜竹鶴の9人兄弟の3男に生まれる。

この本は、"歴史をつくる人々"シリーズとして、戦後の日本経済の発展を推進した名経営者の姿を通して日本企業の姿を紹介しようとしたもの。内容は、ウイスキー革命は俺がやる、ウイスキー飲んで楽しい人生、酒につながる私の歩み、スコットランドでの成果、寿屋からニッカへの5編に分かれている。

大正10年にスコットランドからウイスキー製法の研修を終え、リタ夫人を伴って帰国した政孝は、当初サントリー山崎工場を建設し日本で初めて本格的なウイスキーを製造した。その後、スコットランドと同じ風土の北海道余市に工場をつくり、昭和15年スコッチ本来の伝統の製造法で第1号のウイスキーが誕生、後、社名をニッカとした。

「1920年5月、在カンベルトン 竹鶴政孝 實習報告 ポットスチルウヰスキー」 と書かれたノートが2冊残っている。ひげがトレードマークで大きな声で、磊落な性格と言われる政孝だが、きれいな文字で、原料から労働に関することまでびっしりと書かれている。政孝は、社員に仕事を精一杯して、あとは家族を大切にするように言っていたと言う。今、余市の町を見下ろす丘の上に、竹鶴政孝、リタの合同墓はある。


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『点心帖』

羽白 幸雄 著 徳間書店 昭和44年発行

羽白幸雄は、大崎上島町生まれで、4歳の時、忠海町長などを勤めた羽白新の養子となる。旧制忠海中学、旧制広島高等学校、京都大学文学部独文科を卒業後、広島大学教養部長や広島県立美術館長を歴任する。地域文化の向上に貢献したとして、昭和46年度の中国文化賞を受賞している。

幸雄は日本ペンクラブの会員で、昭和25年初めての「広島の会」では、企画・司会もし、「広島文学」の創刊に尽力している。また、長男光を広島二中の時、学徒動員中原爆に遭い亡くしており、昭和26年11月「原民喜詩碑」が建設された時には、建設委員長として、平和への意志的な実践を示している。    

この本は、羽白幸雄の還暦にあたって、いろんなところに発表されている文章を勧められて1冊にまとめた随筆集。広島大学の教え子である、作家梶山季之が序文を書き、―広島には過ぎたる文学者―とある。

忠海の旧家羽白家は、屋号江戸屋で、廻船問屋として壱岐対馬から松前までのお客帳が残っており平成11年、二男清より竹原市に寄贈され、図書館では、複本を閲覧できる。幸雄は、明治42年生まれで昭和61年に亡くなっている。


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『ちんぴら浪人』

唐島 基智三著 六興出版社 発行 昭和28年

 唐島基智三(明治39〜昭和51年)は、竹原の生まれで、旧制忠海中学から第六高等学校、東京大学法学部政治学科卒業。抜群の成績の秀才だったという。

東京新聞論説委員として退社後もコラムを書き続けた。昭和35年には、NHK第11回紅白歌合戦の審査員に政治評論家として選ばれている。当時の「国会討論会」の番組の司会者として茶の間に政治を持ち込んだ功労者。(広島県大百科による。)  「ちんぴら浪人」は、唐島が自身の2度の浪人生活を余儀なくさせられた経験を、「文芸春秋」で書くように勧められ書いたところが、連日読者から手紙が5通ずつ届き、とうとう1冊の本になったとあとがきに書いてある。  

東京大学の学生の時は、照蓮寺を中心とした文化グループの雑誌『ハチス』会員になって東京から投稿している。  また、市立竹原書院図書館には、寄贈された「唐島文庫」約2000冊(閲覧のみ)が竹原への唐島の思いを今も伝えている。


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『阿蘭陀始制エレキテル 究理原』

橋本曇斎 安政四年  1冊

図書館所蔵本は、昭和15年8月 橋本曇斎先生百年記念会発行の復刻で、橋本曇斎が口述し、弟子の平田稔則政が筆記したとある。  

橋本曇斎(宗吉、鄭(てい))は、電気学の祖と言われ徳島県生まれ。大坂に住み傘職人をしていたが、才能を見出され、江戸で大沢玄沢に入門を許された時、曇斎28歳。入門半年足らずで、オランダ語4万語を習得し四天王の1人となった語学の天才でもあった。自作装置で通電実験を行なった結果を図説入りでまとめた本。エレキテル(摩擦式起電器)で、100人手をつながせて静電気を起こし驚かせたり、大坂熊取の友人宅で、高い松の樹を利用して雷の空中放電も研究した。しかし、当時は幕府に出版を許されず、写本として伝わったが、江戸時代に唯一の電気に関する単行本であった。  

曇斎の墓は、照蓮寺と大坂念仏寺にある。晩年、竹原で医者をしていた家は、現在橋本家のものではないが、庭木、敷石に、当時を偲ぶことができる。全国でも珍しい「曇斎資料」が、昭和35年に図書館に寄贈され、蘭学・電気・郷土史家の方が、今も全国から調査に来館されている。


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『芳山小記』 

頼 春風著 大正13年 1冊

 大正13年10月23日、春風の百年祭の記念に曾孫頼俊直が、春風館所蔵本(安永7年)を印刷したもの。  内容は、芳山小記と附録芳山雑詩とで1冊になっている。安永7年3月、大阪にいた春水の誘いで、竹原から父亨翁(惟清)を奉じて一行8人で大坂から吉野山の桜を見ながら大和地方を旅した詩集。  

国書総目録(岩波書店発行)では、春風の著作として、庚申 漫采・西漫溟?奇・春風館詩鈔(享和3年)・東遊詩巻・芳山 小記・引翼編(安永5年)が記載されており、その他の詩文稿 類は春風館に残されている。  

町並みにある県史跡「頼惟清旧宅」で、頼惟清の次男と して生まれた春風(通称 松三郎、字千齢、諱惟彊)は、春 水と同じく大阪で医術を学び、他藩より召抱えたいと言う 話を断り、竹原で医者を開業した。春風は、安永末年には、 塩田経営に進出し、天明初年には春風館を建設し(現在の 春風館は、安永2年〔1859〕の建築)、竹原頼家繁栄の基 礎を築いた。(竹原市史第1巻)


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『梅表外字:風に思歌文鈔』

頼 静子著 頼 成一編 昭和16年 婦女会社

頼静子は、頼山陽の母で、"梅表外字:風に思"は号。夫・春水が亡くなる8日前に病床で"梅表外字:風に思"の2文字を揮毫し妻に贈り、絶筆となった。「頼静子の主婦生活」(皆川美恵子著)によると、"梅表外字:風に思"の梅は、春水の春にちなみ、表外字:風に思とはさっと細かに涼しく吹く風の意なので、水と風の取り合わせもあり春水の妻との絆に寄せる情愛の深さが漂うと書かれている。  

この本は、歌人川田順が精選したもので、和歌の部は、天明5年静子26歳の時から天保14年84歳で亡くなる年までの326首、文章の部は、10編が年代順に掲載されている。昭和17年には、「賢母梅表外字:風に思夫人」(頼山陽先生遺蹟顕彰会)・昭和18年には「頼山陽の母」(吉川綾子)なども出版され、また静子は、59年間にわたり「梅表外字:風に思日記」を書き残しており、昭和6年「頼山陽全集」にも所収され、頼山陽研究の第一級資料となっている。  

大阪生まれの静子の父飯岡義斎は、111か条の「夜鶴草」を書き静子に贈り、その最後に − よの中に道より外ハ何事もすっぽらぽんのぽんにしておけ − と江戸勤務の春水の留守を守る静子を励ました。広島在住の作家見延典子は、梅表外字:風に思の生涯を「すっぽらぽんのぽん」という題で1冊にまとめている。(南々社発行)


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『恵明集』

僧恵明(号獅絃または大洞、字達元 、享保14年〜文化4年) 1冊 写本

市立竹原書院図書館初代館長 村上英が昭和8年照蓮寺所蔵本により謄写したもの。天明8年から寛政11年までの詩文260首余りに付録も写している。賀茂郡誌には、照蓮寺9世住職であった恵明(えみょう)は、学徳高く世人の渇仰する所たり、殊に詩文を善くす、とある。竹原市史によると、頼三兄弟、特に春風と親しく、春風館を詠った詩もあり、また春水は8歳の頃、恵明に千字文法帖などを学んだと言う。頼山陽も竹原へ来た時は、恵明らとあちこち散策している。   

住職としての恵明は、寺の勤めに励み、師弟には厳しく、門徒には親切に教えを説いた人であったと言う。孝女みつの碑も建立している。   安芸竹原照蓮寺によると、隠居所として、小祇園を眺めるように建てた離れ"澹寧居(たんねいきょ)・看心亭"で恵明は詩作にふけり、竹原を訪れた多くの文人をもてなした。「喜人訪獅絃室」という詩もあり、客人と四季風月を楽しんだ様子が伺える竹原を愛した先人である。


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